美しい日本の住まい
下がり壁 (前編)
「空間の分節 ----- 野平洋次 ----- 」
 大相撲が行われる国技館、中に入れば土俵の上に吊り屋根がある。屋根を支える柱がない。おかげで全貌をテレビ中継でみることができる。お相撲さんも柱にぶち当てられて怪我をすることもない。
 このように柱がないことは理想的なことなのだが、それは屋根が天から吊るされているからにほかならない。現実の建物は地べたに足を踏ん張ってつまり柱を立てて屋根を支えなければならない。
 日本建築は外へ外へと平面的に伸びていくのが特徴である。柱はその手段に過ぎない。日本家屋は1階建ての平屋が普通だった。2階といっても屋根裏部屋であった。屋根が連続して伸びていく。長くなりすぎるとL字T字型になる。その空間の連続性にこそが日本建築の特色がある。
 「空間の分節のことをアーティキュレーションというんだよ。近代建築の重要な要素なんだ。」と学生時代に先輩はの賜った。近代建築で言う所のアーティキュレーション(articulation)が日本建築の下がり壁につながる。社殿や御殿を見ていると下がり壁が分節の重要なアイテムであることがよくわかる。
 連続する屋内空間の中で、部屋の形を示し部屋と部屋のつながりに表情をつけて屋内を区分するのが下がり壁である。
 伝統ある大相撲の土俵も柱をなくしたが屋形はある。その四方に水引幕と呼ばれる紫の布が垂れ下っている。けがれを払うという意味付けがされている。これで土俵と観客席いう空間の分節がなされる。
 下がり壁も同じようなものというのは言い過ぎかもしれないが、天井から下に垂れ下がっている壁で、囲われた空間ができる。壁がなければ、のっぺらぼうの室内となり落ち着かない。
 下がり壁は欄間の部位が壁になったようなものである。間越し欄間が続き間の天井を連続して見せるのに対して、下がり壁は次の間との分れ目をはっきりと視覚的に見せつける。
 下がり壁の下の襖が閉められれば、完全に閉鎖した1室となる。障子・襖などによる軽やかな間仕切りと下がり壁の絶妙なバランスは、学生時代に教わった「流れる空間の意匠」を思い出させる。
 壁・開口・建具の構成は、意匠の妙味である。
 書院造り・茶室などにある床の間も日本建築の意匠の見せ場である。
 床の間の一種に釣床(つりどこ)がある。吊り束に下がり壁(吊り壁)と落とし掛けがあるほかは何の造作もほどこさない床の間である。
 天井から吊り下げられた1間弱の短い壁で囲われたその下は、座敷の畳そのままでこれを「床の間」とみなす。下がり壁の奥の室内壁には掛け軸や花入がかけられ、住む人の美意識が凝縮される。夜ともなれば下がり壁に囲まれた空間は「闇だまり」となって無限の小宇宙をもたらす。
 吊り束が下がり壁をつくり、下がり壁が木造の立体格子に空間をつくる。大工職人によって考え出された木造仕口は様々なことを可能にする。
後編につづく Copyright © 2021 野平洋次 )
「空間の分節 ----- 正しい家づくり研究会 松坂亮一 ----- 」
「山形県酒田市にある「舞娘茶屋・雛蔵畫廊 相馬樓」

 今回の随筆、第20章 下がり壁(前編)「空間の文節」を読み終えて、ふと旅した山形県庄内地方のことを思い出した。庄内地方は山形県の日本海に面した地域で、日本3大平野である庄内平野から作り出されるお米、日本海の海の幸、奥羽山脈の山の幸にも恵まれている。江戸時代から今も使われる山居倉庫や昔からの日本酒の造り酒屋の建物なども数多く点在している、歴史と文化が深く今でもつづいている素敵な街である。その中でも今回の随筆のテーマに合った、酒田市で出会った『舞娘茶屋・雛蔵畫廊 相馬樓』についてご紹介したいと思います。
 1808年に当時の贅を尽くして建てられた料亭、「相馬屋」は江戸時代に北前船で大いに栄えた酒田湊のほど近くにあります。現在も日枝神社につづく石畳の道に面して現在もその佇まいを残しております。現在も残る木造の母屋は明治27年の庄内大震災の大火で焼失した直後、残った土蔵を取り囲んで建てられたものです。
 1996年11月には国の「登録有形文化財」に登録され、相馬屋の廃業後に港町の花柳界の伝統と新しい文化を融合させた観光施設として、2000年に『相馬樓』として開樓されました。現在では1階の20畳部屋を「茶房くつろぎ処」、2階の大広間は舞妓さんの踊りとお食事を楽しむ「演舞場」となっております。2階大広間の畳の色が薄いピンク色なのは山形県の特産品でもある紅花で染色された畳表だからだそうです。

【相馬楼 外観と石畳】
【2階大広間(現在は演舞場)】
【1階 茶房くつろぎ処からの中庭の眺め】
【両国国技館2019年春場所】
【釣木】
担当:正しい家づくり研究会 松坂亮一

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