美しい日本の住まい
厨子二階 (後編)
「匠の技の窓 ----- 野平洋次 ----- 」
 厨子(つし)二階が町家の形式として成立した江戸時代、商家の使用人達の部屋は厨子二階であった。天井の低い屋根裏部屋である。軒桁と庇のあいだの細長い外壁にわずかばかり空けられた窓から光と風が入る。
 この窓には竪格子があり縄を巻いて土を塗り、外壁塗り壁と一体化している。虫籠(むしこ)格子と言われる。そしてこの格子のある小さな窓は虫籠(むしこ)窓と呼ばれる。虫かごのイメージからきたネーミングである。江戸時代中期から見られる。当初は丸型であったものが、次第に長方形に変化する。さらに意匠を凝らした変形窓もある。左官の腕の見せ所とばかりに、装飾的な縁取りや鏝絵(こてえ)をつけた飾り窓もある。虫籠窓のある造りは虫籠(むしこ)造りとも言う。
 これは上方(京都・大阪)で普及した。江戸時代に京普請(京風の町家を建てること)は地方の商家のあこがれであり誇りであった。また財をなした商人も京普請を好んだ。厨子二階・虫籠窓は京由来の贅沢となった。江戸幕府の禁令がなくなり町家が総二階(本二階)になる明治時代になって厨子二階の町家形式は廃れていく。
 現在、京町屋を知るには京都市下京区の奈良屋杉本家がある。一般公開されており、京の町家・オモテ造りを伝える建物として国の重要文化財となっている。
 この杉本家の厨子二階は表戸口から入ってすぐ傍にある階段を上がる。店の間の真上である。2畳ばかりの板の間と押入れ付き6畳間である。虫籠窓の際(きわ)で天井高は5尺7寸1分(約171cm)である。別棟の母屋は本二階で、6畳間と中の間と床の間付き座敷があり、主人の居室となっている。この座敷は北向きにもかかわらず、向かいに建つ蔵の白壁に反射する日光で明るいという。
 杉本家の前に立つ。出格子・大戸・高塀に犬矢来・厨子二階の虫籠窓と普通の町家のように見える表構えも、奥に入れば通り庭・玄関庭・露地庭・座敷庭があり2階建ての母屋と5つの蔵がある。見かけは質素にという京都人の住まいである。
 このような京都風の建物は地方にも残っている。
 九州は宮崎県日向市美々津に現在は日向市歴史民俗資料館として公開されている廻船問屋の遺構がある。
 厨子二階に上がると道路に面する側に長方形の虫籠窓、天井は屋根勾配を現した駆け込み天井とそれを受けて広がる平天井がある。畳が敷いてある。その部屋の隅には箪笥がある。使用人達の寝る場所として使われたという。
 取材で訪れた時、窓辺に座り込んで下の通りを格子越しに見下ろした。そして丁稚奉公をした子供達を想像した。疲れた体を休め家族のことを思いながら、耐えて過ぎていく時間をこの場所で刻んだことだろう。虫籠窓とは切ない名前である。
 虫籠窓を現代の住まいで探すことは難しい。開口部は建具が嵌められ掃き出し窓となるのが決まりの日本家屋にあって、壁にうがった穴のような虫籠窓は異質であるが、設置位置といいプロポーションといい色合いといい絶妙である。町家の外観意匠として無視できない。
 大工・左官の匠達の技芸が凝縮したような窓に「一に格好、二に材料、三に手間」という職人の言説に納得がいった。厨子二階の虫籠窓に「美しい日本の住まい」を見た。
前編を見る Copyright © 2021 野平洋次 )
「匠の技の窓 ----- 正しい家づくりの研究会 松坂亮一 ----- 」
重要文化財の住まい「奈良屋杉本住宅」

 今回の随筆、第26章 厨子二階(後編)「匠の技の窓」を読み終えて、今回のテーマも難しいなと思った。何故ならば大学から建築を学び卒業後も住宅業界、建築業界に長くいるにもかかわらず初めて見る言葉の数々。。。野平洋二先生の知識量に感銘を受けるばかりでした。
 今回は文章に出てくる『奈良屋杉本家』を考察してみました。
杉本家は、もとは『奈良屋』という屋号を持つ呉服商で、京呉服を仕入れ関東地方にで販売する「他国店持京商人」として栄えたそうで、1743年(寬保3年)に烏丸四条下ルで創業し、1767年(明和4年)に現在地に移ったそうです。
 現在の建物は、蛤御門の変が起こった際の「元治の大火」で燃えたあと、1870年(明治3年)に再建されたもので、下京における大店の建築遺構として極めて高い価値を誇っています。
 ちなみに、奈良屋の関東地方への出店は1807年に下総国佐倉であった。その後、戦後には三越と合弁でニューナラヤを創立し1984年に三越へ経営権を移譲するまで百貨店も経営されていたようです。
 現在では子孫の「杉本節子」さんが料理研究家として、「NHKきょうの料理」や、ラジオなどへの出演、レシピ本などの著書も多数出版されています。

【重要文化財:奈良屋杉本住宅 厨子二階と虫籠窓】
正しい家づくりの研究会 松坂亮一

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