美しい日本の住まい
庭 (後編)
「坪 庭 ----- 野平洋次 ----- 」
日本の住まいは家の中心から<縁側→庭→敷地境界→界隈の景色→遠方の景色>と、空間の仕切りが拡がっていくのが特色である。これは日本家屋の外延性といわれるものだ。<私→知己→友人→知人→同胞→他人>を隔てる精神的境界を、<中心となる家族の部屋→応接用客間→玄関→門>という住宅の装置に置き換えて延びてゆく。そして各境界の緩衝装置として庭がある。
京の着倒れ、大阪の食い倒れ、堺の建て倒れと言う。堺は普請(ふしん)道楽(どうらく)の街、茶人千利休の本拠だった。堺の豪商の多くは離れ座敷に茶の席を設け、客人を招き入れていれた。利休の師匠:武野紹鴎の茶室は、4畳半の座敷の簀(す)の子縁の先に一坪ほどの庭があって土塀に囲まれる。「面ノ坪ノ内」と記されている。広い邸宅の中に、内側からしか入る事の出来ない茶屋があって、そこにわずかにその座敷からしか見る事の出来ない小さな庭が仕組まれている。
堺商人の時代は終わるが、このような普請を受け継いだ邸宅が江戸中期まで建てられていた。
大阪商人が建てた江戸時代の借家がある。間口3間、奥行き5間半の鰻の寝床のような敷地一杯に家が建っている。表口から裏口に通り抜ける庭に添って、<店の間→次の間→座敷>と並び、座敷の外には8坪ほどの空き地がある。空き地は座敷からの景色として造園しているが、この借家は裸(はだか)貸(かし)、すなわち店のしつらえや造園、畳・障子・襖は借家人が調達し、引っ越すときはそれらを持ち去って、また元通りの状態にする。であるから庭の仕様は住人任せで、敷地図の表記で庭は空き地となる。(谷直樹「町に住まう知恵」2005年)
町の中に軒を連ねて住む形式は町家として全国各地に見られるが、洗練された町家となればやはり京都だろう。江戸中期に、縦引き鋸(のこぎり)・台鉋(かんな)などの工具の普及、畳・建具などの規格寸法の確立もあって、贅沢禁止令の中で表屋造りという形式ができた。門口・格子・バッタリ床几(しょうぎ)・通り庇に2階の虫籠窓という表構えの家々が並ぶ。江戸時代の都市住宅の完成である。お上りさんには表からは資産価値の区別がつかない建物群、と当時の旅日記にあるとか何かの本に書いたあった。
表通りに面する構えは同じでも、それぞれにたとえ1坪でも自分の敷地内に庭をつくり、光や風を取り込む。鳥瞰(ちょうかん)すると、碁盤の目のような表通りに囲こわれた家並のそこかしこに、虫が食ったような穴が空いているようだ。表からは見る事ができない、坪庭・中坪などと呼ばれる屋外空間を持つ住居形式の完成である。
東京都心の昭和時代からの住宅地に建つ近代数奇屋で有名な建築家設計の住宅を見学させてもらう機会があった。入り道の奥に1枚のコールテン鋼板張りの片引き戸がある。玄関と言うよりは入り口、大壁の外壁に開けられた穴として仕立てられている。屋内に上がって1坪ほどの庭、文字通りの坪庭に案内された。簀(す)の子縁があった。白砂を敷いて照り返しの明るさを室内に呼び込んでいた。一株の植栽とポツンと置かれた蹲(つくばい)の水面が風に揺れていた。
狭い敷地で隣家の窓と角突き合わせるような窓は不要、むしろ家の中に庭を創り出して空につながる方が豊かな気分になれる。
1970年代にコート・ハウスとしてに登場した中庭・坪庭をもつ住居形式は、都市住宅のあり方を示すモデルとなった。都市住宅において、隣地境界を挟んでわずか1mの距離で相互の家が睨み合うより、敷地の有効利用の為には町家のように1枚の壁で隣り合うほうがいい。筆者も西沢文隆「コート・ハウス論」(1974年)に傾倒した。
現代的な都市住宅の外壁に窓は少なく、外部との関係を閉ざしたような家が並んでいる。そのようにしなければ密集住宅地でのプライバシーは守られない。
外を閉ざして内に開く都市の住まいである。田園住宅の外延性とは違った都市住宅における外部空間とのつながり方がある。
京の着倒れ、大阪の食い倒れ、堺の建て倒れと言う。堺は普請(ふしん)道楽(どうらく)の街、茶人千利休の本拠だった。堺の豪商の多くは離れ座敷に茶の席を設け、客人を招き入れていれた。利休の師匠:武野紹鴎の茶室は、4畳半の座敷の簀(す)の子縁の先に一坪ほどの庭があって土塀に囲まれる。「面ノ坪ノ内」と記されている。広い邸宅の中に、内側からしか入る事の出来ない茶屋があって、そこにわずかにその座敷からしか見る事の出来ない小さな庭が仕組まれている。
堺商人の時代は終わるが、このような普請を受け継いだ邸宅が江戸中期まで建てられていた。
大阪商人が建てた江戸時代の借家がある。間口3間、奥行き5間半の鰻の寝床のような敷地一杯に家が建っている。表口から裏口に通り抜ける庭に添って、<店の間→次の間→座敷>と並び、座敷の外には8坪ほどの空き地がある。空き地は座敷からの景色として造園しているが、この借家は裸(はだか)貸(かし)、すなわち店のしつらえや造園、畳・障子・襖は借家人が調達し、引っ越すときはそれらを持ち去って、また元通りの状態にする。であるから庭の仕様は住人任せで、敷地図の表記で庭は空き地となる。(谷直樹「町に住まう知恵」2005年)
町の中に軒を連ねて住む形式は町家として全国各地に見られるが、洗練された町家となればやはり京都だろう。江戸中期に、縦引き鋸(のこぎり)・台鉋(かんな)などの工具の普及、畳・建具などの規格寸法の確立もあって、贅沢禁止令の中で表屋造りという形式ができた。門口・格子・バッタリ床几(しょうぎ)・通り庇に2階の虫籠窓という表構えの家々が並ぶ。江戸時代の都市住宅の完成である。お上りさんには表からは資産価値の区別がつかない建物群、と当時の旅日記にあるとか何かの本に書いたあった。
表通りに面する構えは同じでも、それぞれにたとえ1坪でも自分の敷地内に庭をつくり、光や風を取り込む。鳥瞰(ちょうかん)すると、碁盤の目のような表通りに囲こわれた家並のそこかしこに、虫が食ったような穴が空いているようだ。表からは見る事ができない、坪庭・中坪などと呼ばれる屋外空間を持つ住居形式の完成である。
東京都心の昭和時代からの住宅地に建つ近代数奇屋で有名な建築家設計の住宅を見学させてもらう機会があった。入り道の奥に1枚のコールテン鋼板張りの片引き戸がある。玄関と言うよりは入り口、大壁の外壁に開けられた穴として仕立てられている。屋内に上がって1坪ほどの庭、文字通りの坪庭に案内された。簀(す)の子縁があった。白砂を敷いて照り返しの明るさを室内に呼び込んでいた。一株の植栽とポツンと置かれた蹲(つくばい)の水面が風に揺れていた。
狭い敷地で隣家の窓と角突き合わせるような窓は不要、むしろ家の中に庭を創り出して空につながる方が豊かな気分になれる。
1970年代にコート・ハウスとしてに登場した中庭・坪庭をもつ住居形式は、都市住宅のあり方を示すモデルとなった。都市住宅において、隣地境界を挟んでわずか1mの距離で相互の家が睨み合うより、敷地の有効利用の為には町家のように1枚の壁で隣り合うほうがいい。筆者も西沢文隆「コート・ハウス論」(1974年)に傾倒した。
現代的な都市住宅の外壁に窓は少なく、外部との関係を閉ざしたような家が並んでいる。そのようにしなければ密集住宅地でのプライバシーは守られない。
外を閉ざして内に開く都市の住まいである。田園住宅の外延性とは違った都市住宅における外部空間とのつながり方がある。
(前編を見る Copyright © 2022 野平洋次 )
「坪 庭 ----- 有限会社みゆき設計 吉川みゆき ----- 」
正しい家づくり研究会会員の設計した「足利の家」
住まいの設計には、デザイン(外観・内観)、お部屋の空間構成(間取り・吹抜)、構造(地震・風・積雪)、温熱(断熱性・気密性)、空気(給気・換気)、音(防音・遮音)、防火性能、防犯対策、修繕対策、法律遵守など多義に渡りますが、これらは、設計者として当然配慮する事項です。
私たちは、前述に加えてここで暮らすご家族が末永く「幸せ」でいるためのしつらえの工夫を考えます。
例えば、家族間の距離(コミュニケーションとプライバシー)、家族構成の変化や居住者の年齢に伴う改修工事への準備、家事動線の短縮、住宅設備機器の機能選定、隣家からの視線配慮など、本来、日常生活を平穏に過ごすためには欠かすことができない重要なポイントです。加えて、空間の連続性への考察も行います。
足利の家に着手する十数年前にご両親の住まい・数年前にご姉妹の住まいを設計していたので ご家族の距離感やこだわりはだいたい把握していました。
プレゼンテーション(設計提案)をしたところ、変更のご要望もなくご承諾を頂いたため、お施主様に渡り廊下に対する設計意図はお話ししなかったと思います。
足利の家の特徴は、「外界へのアプローチゾーン」と「プライベートゾーン」との間に坪庭を望む長さ5mの渡り廊下を設けていることでした。
ここは、精神的な境界(一種の結界)をイメージして、外界で受けた緊張感や気苦労から解放され、ほのかに香るいい匂いや美味しそうな匂いを感じて穏やかな気持ちとなってご家族との生活につなげる緩衝装置的な空間です。
一見、無駄なスペースとも言えますが、日本人のDNAには、空間の連続性を利用して気分転換をはかる要素があるのではないでしょうか。
設計担当:有限会社みゆき設計 吉川みゆき