美しい日本の住まい
軒下 (後編)
「開かれた軒先 ----- 野平洋次 ----- 」
 小学生の頃、雨の日が続くと学校までアーケードのようなものがあればいいのにと思ったことがある。その夢をかなえてくれるものがイタリア・ボローニャにあった。
 13世紀に独立自治都市となったボローニャの街の主要道路には、柱廊が作られている。市内全域で全長50km余り。道路際に柱を立て、迫り出した母屋の2階を支えている。その下を通路として開放したポルティコがある。
 この軒下領域は私有地で、各住居の玄関ポーチが柱廊となってつながっている。雨や強い日射しにさらされることなく街中を歩く事ができる。夏になるとカフェやレストランのテーブルが持ち出され、日陰で午後のお茶を楽しみ、夜風に吹かれて夕食を取る街の人達で賑わっている。軒先を公共の場所として開放した都市回廊である。
 タイムスリップをしてひと昔前の日本列島、新潟県加茂市に行ってみよう。雪国の小京都と呼ばれている町に雁木通りがある。
 家々の玄関の前に庇が長く張り出していて、その下を人々が通り抜けられるようになっている。つまり玄関先の軒下を開放してさらにその先に屋根だけの木造丸太小屋をつくり通路としている。雁木と呼ばれているものだ。頑丈そうな梁には雪下ろしに使う滑り台やハシゴがつり下げられていて、まるで物置き場である。この梁に大根や干し柿を吊るしている家がある。雁木の下で子供達が縄跳びに、おばあさん達は立ち話に夢中となる。
 さらに新潟県の豪雪地を行くと上越市高田の雁木造りがある。江戸時代、商家は2階を低くして張り出し、2m以上も積る雪道から直接2階へ出入りができるようにした。その下を通路として開放したのが雁木造りである。1665年の地震のあと、城下の町家が復興に際し一斉に雁木造りにして、城下をめぐる軒下通路を完成させた。日本にもポルティコがあった。  そんな歴史からか現代も雁木造りの風情を残しながら、商店街のアーケードのようなものも入り交じっている。高田は雁木通りの長さが延べ16kmで日本一である。
 立ち並ぶ家々が私有地を通路に開放してつながっている風景には、協同して住む商店街の作法が感じられる。私有地だからといって、家の中にあふれた物を分別なく持ち出したりはしない。雪に閉じ込められる日常生活の必要から生まれた雁木は、共に雪解けの春を待って生き抜く地域共同体の連帯の表れのように見える。
 豪雪地帯の街づくりは津軽でも見る事ができる。
 関ヶ原の合戦の勝ち組でありながら、この地を拝領した大名大浦為信が江戸の街から職人達を連れてきて弘前の街づくりをする。この城下の町家には雁木が取り付けられた。
   さらに津軽藩の支藩黒石にも雁木がある。近江の国から移り住んで商いをした人達が作った。米屋・種屋・酒屋・京呉服・鍛冶屋・鋸目立て屋などの店が路線上に並んだ。切り妻大屋根の妻側が出入り口で、その店先に庇が取り付けられ通路となった。幅は1間、通行人がすれ違える広さで、これを当地ではコミセと呼ぶ。
 コミセの柱には鉄輪が打ってある。近郊から馬車で農作物を運んで来てきた村人が、馬の手綱をつなぎ止めるためのものだ。卸問屋に荷下ろしをした後、コミセを右往左往して生活用品を買い込み馬車につんで村へと帰って行った。
 コミセの柱間隔は1間で列柱となっている。この柱には溝が彫ってあり雨戸を横にして落とし込む事ができる。雪が積もる頃になるとこの雨戸が雪除け、雪囲いとなって通路が確保される。
 私有地を提供し連続させたことで生まれた通路には生活の知恵が染み付いている。「買い手よし、売り手てよし、世間よし」を商いの原則とした近江商人たちの心意気であろうか。
 コミセは浅草などに現在ある仲見世につながる言葉で小見世を意味する。津軽海峡に接する陸奥地方では、コミセ・コモセ・コモヒ・コモヘなどの方言がある。
 豪雪地帯の街に軒下を開放してつくった雪明かりの路がある。
Copyright © 2019 野平洋次 )
「開かれた軒先 ----- 有限会社みゆき設計 吉川みゆき ----- 」

「浅草仲見世通り」
 日本で最も古い商店街の一つとされる仲見世。長さは約250メートルあり、両側合わせて約90の店舗が軒を介して連なっています。とある春先、肌寒い夜にもかかわらず仲見世通りはたくさんの人たちで賑わっていました。浅草寺へ足早に向かう観光客、満開の桜の木を写真に収める人たち、夜のお散歩をする家族連れ。軒先の明かりがそういった様々な人たちをほんのりと温かく照らしているのが印象的でした。
 紅葉の秋、今はどんな表情をしているのでしょうか。四季折々、訪れてみたくなる、そんな場所の一つです。

担当:有限会社みゆき設計 吉川みゆき

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