美しい日本の住まい
屋根 (後編)
「寄棟 ----- 野平洋次 ----- 」
覆いかぶさるような屋根の存在感を目にする機会が少なくなった。狙いを定めて民家探訪でもしない限り、茅葺きの大屋根に出会うことがない。
大屋根の下には、建具で仕切ったり取り外したり片付けたりして、どんな事態にも滞りなく対応できる大家族の住まい方があった。屋根は屋内とその上空の屋外を仕切り、雨露や寒暑を防ぐ。「屋根は異界、鬼の住むところ」と言われたが、鬼に守ってもらうに越したことはない。
江戸時代までは、庶民の家は板葺き切り妻屋根で、豪農の家の屋根は茅葺き方形(ほうぎょう)(寄棟)、武家や身分のある者の家の屋根は瓦葺き入母屋と区別することができた。明治初期までは寄棟は方形(ほうぎょう)と言われている。方形造りは
①四方の隅棟が一箇所に集まる屋根で屋根伏せは正方形となる。宝形とも書く。四阿(あずまや)とも言う。
②大棟の両端に隅棟が集まる屋根をいう。
この2つの意味をもっていた。
現代では①宝形と②寄棟はそれぞれ別の屋根型として区別されているが、筆者の知る昭和の棟梁は死ぬまで現代でいう寄棟を宝形と言っていた。
寄棟屋根の展開は建築の近代化とともにあるようだ。
明治維新を経て寄棟屋根の西洋館・洋風住宅が出現する。和洋折衷住宅にも瓦葺の寄棟屋根が普及する。
直方形の間取りを組み合わせた複雑な平面型でも、屋根面の各隅角(出隅・入隅)から45度の線を引いて棟と結べば隅棟と谷が求められる。雁行する大規模な平面でも寄棟ならかけられる。複数の棟が連続する複雑な屋根は方形とはかけはなれたものとなる。寄棟として区別されて当然である。木造2階建近代住宅の屋根は鬼の住む異界というより、住まいのしゃれた帽子となった。
寄棟屋根の美しい住宅に近代建築の巨匠フランクロイド.ライト設計のロビー邸(1910年)がある。アメリカのシカゴで見た。雁行する平面、低い天井、仕切なく連続する室内空間に日本建築が見える。レンガ造の躯体に載せた木造小屋組は、軒先が水平に軽快に伸びている。郊外住宅として考えられた草原様式の代表作だ。緩やかな屋根勾配で四方どこから見ても穏やかである。
1905年初来日したF.ライトは日本文化から哲学的影響を受けた。自説の有機的建築論を日本で確信したという。
F.ライトに師事したアントニン.レイモンドは伝統的日本建築の中にモダニズムを見出した。1928年日光に建てたイタリア大使館別荘は、日光杉をふんだんに使用した木造寄棟造りで、外壁は杉皮張り、そして屋根も杉皮葺・こけら葺で景色に溶け込んでいる。木に包まれた空間から心地よく中禅寺湖が眺望できる。A.レイモンドは日本の大工棟梁の力量を高く評価していたという。
同じくF.ライトに師事した遠藤新の設計による寄棟瓦葺屋根の住宅がある。1931年三鷹市に建てられた小塩邸である。「くるめ絣(かすり)の家」とも言われる。洗えば洗うほど良くなる家というわけだ。現在は遠藤の生まれた福島県の地に移築され保存されている。
• 雨戸と縁側で内と外を隔てる
• 用途を限定しないない座敷
• 各部屋はある時は独立し、ある時は一体となって、全体が一つの姿にまとまる
• 部分が相なす美しさ、それがまた全体に参ずる美しさ、そしてさらに全体が部分に及ぶ美しさ、その美しさと真実のあり方
これはF.ライトが提唱した有機的建築のあり方であり、遠藤新が到達した有機的建築である。
昭和時代に入り、中流住宅は木造瓦葺寄棟が普及する。
風雨に立ち向かう屋根としては、全方位に屋根面を持つ寄棟が適切である。
台風が頻繁にやってくる島では、吹き荒れる暴風雨をやり過ごすために、地面からそっと寄棟屋根を出して耐えているような民家に出会う。沖縄では、石垣や生垣に囲まれ風屏(ひんぷん)という敷地の入り口に立ちはだかる壁で周囲を守られた、小さな寄棟の住まいがあった。屋根は沖縄産の赤瓦で隙間なく白漆喰で止めている。屋根の下の居住空間は開放的で軒下は雨端(あまはじ)と呼ばれる。
風土がもたらしたその土地の建築の作法がある。令和の時代に地域の個性となって伝承されていく屋根とは、一体どのようなものだろう。
世相は激変している。1970年代には、30歳台で自前の家を持つことがその後の人生の基盤になるという勧めが当然のこととして受け止められ、幸せ家族の家づくりがなされた。2022年4月のニュースで「30台未婚率4割を超える」と伝えられている。単身家族の多さで求められる住まいも変わってくるだろう。
一方で日本の木造住宅を支える大工職人の減少がとまらない。大工育成事業が国の補助事業として取り組まれているが、和室に住んだことのない大工が出現する。大工さんから日本家屋を学ぶことも怪しくなってきた。
住まいの需要も供給体制も変わってきた。
これからの住まいで、受け止め引き継いで行く日本の住まいの文化とは何か、視点を変えてIBHのみなさんと考えてみたい。
大屋根の下には、建具で仕切ったり取り外したり片付けたりして、どんな事態にも滞りなく対応できる大家族の住まい方があった。屋根は屋内とその上空の屋外を仕切り、雨露や寒暑を防ぐ。「屋根は異界、鬼の住むところ」と言われたが、鬼に守ってもらうに越したことはない。
江戸時代までは、庶民の家は板葺き切り妻屋根で、豪農の家の屋根は茅葺き方形(ほうぎょう)(寄棟)、武家や身分のある者の家の屋根は瓦葺き入母屋と区別することができた。明治初期までは寄棟は方形(ほうぎょう)と言われている。方形造りは
①四方の隅棟が一箇所に集まる屋根で屋根伏せは正方形となる。宝形とも書く。四阿(あずまや)とも言う。
②大棟の両端に隅棟が集まる屋根をいう。
この2つの意味をもっていた。
現代では①宝形と②寄棟はそれぞれ別の屋根型として区別されているが、筆者の知る昭和の棟梁は死ぬまで現代でいう寄棟を宝形と言っていた。
寄棟屋根の展開は建築の近代化とともにあるようだ。
明治維新を経て寄棟屋根の西洋館・洋風住宅が出現する。和洋折衷住宅にも瓦葺の寄棟屋根が普及する。
直方形の間取りを組み合わせた複雑な平面型でも、屋根面の各隅角(出隅・入隅)から45度の線を引いて棟と結べば隅棟と谷が求められる。雁行する大規模な平面でも寄棟ならかけられる。複数の棟が連続する複雑な屋根は方形とはかけはなれたものとなる。寄棟として区別されて当然である。木造2階建近代住宅の屋根は鬼の住む異界というより、住まいのしゃれた帽子となった。
寄棟屋根の美しい住宅に近代建築の巨匠フランクロイド.ライト設計のロビー邸(1910年)がある。アメリカのシカゴで見た。雁行する平面、低い天井、仕切なく連続する室内空間に日本建築が見える。レンガ造の躯体に載せた木造小屋組は、軒先が水平に軽快に伸びている。郊外住宅として考えられた草原様式の代表作だ。緩やかな屋根勾配で四方どこから見ても穏やかである。
1905年初来日したF.ライトは日本文化から哲学的影響を受けた。自説の有機的建築論を日本で確信したという。
F.ライトに師事したアントニン.レイモンドは伝統的日本建築の中にモダニズムを見出した。1928年日光に建てたイタリア大使館別荘は、日光杉をふんだんに使用した木造寄棟造りで、外壁は杉皮張り、そして屋根も杉皮葺・こけら葺で景色に溶け込んでいる。木に包まれた空間から心地よく中禅寺湖が眺望できる。A.レイモンドは日本の大工棟梁の力量を高く評価していたという。
同じくF.ライトに師事した遠藤新の設計による寄棟瓦葺屋根の住宅がある。1931年三鷹市に建てられた小塩邸である。「くるめ絣(かすり)の家」とも言われる。洗えば洗うほど良くなる家というわけだ。現在は遠藤の生まれた福島県の地に移築され保存されている。
• 雨戸と縁側で内と外を隔てる
• 用途を限定しないない座敷
• 各部屋はある時は独立し、ある時は一体となって、全体が一つの姿にまとまる
• 部分が相なす美しさ、それがまた全体に参ずる美しさ、そしてさらに全体が部分に及ぶ美しさ、その美しさと真実のあり方
これはF.ライトが提唱した有機的建築のあり方であり、遠藤新が到達した有機的建築である。
昭和時代に入り、中流住宅は木造瓦葺寄棟が普及する。
風雨に立ち向かう屋根としては、全方位に屋根面を持つ寄棟が適切である。
台風が頻繁にやってくる島では、吹き荒れる暴風雨をやり過ごすために、地面からそっと寄棟屋根を出して耐えているような民家に出会う。沖縄では、石垣や生垣に囲まれ風屏(ひんぷん)という敷地の入り口に立ちはだかる壁で周囲を守られた、小さな寄棟の住まいがあった。屋根は沖縄産の赤瓦で隙間なく白漆喰で止めている。屋根の下の居住空間は開放的で軒下は雨端(あまはじ)と呼ばれる。
風土がもたらしたその土地の建築の作法がある。令和の時代に地域の個性となって伝承されていく屋根とは、一体どのようなものだろう。
世相は激変している。1970年代には、30歳台で自前の家を持つことがその後の人生の基盤になるという勧めが当然のこととして受け止められ、幸せ家族の家づくりがなされた。2022年4月のニュースで「30台未婚率4割を超える」と伝えられている。単身家族の多さで求められる住まいも変わってくるだろう。
一方で日本の木造住宅を支える大工職人の減少がとまらない。大工育成事業が国の補助事業として取り組まれているが、和室に住んだことのない大工が出現する。大工さんから日本家屋を学ぶことも怪しくなってきた。
住まいの需要も供給体制も変わってきた。
これからの住まいで、受け止め引き継いで行く日本の住まいの文化とは何か、視点を変えてIBHのみなさんと考えてみたい。
(前編を見る Copyright © 2022 野平洋次 )
「寄棟 ----- HAN環境・建築設計事務所 松田毅紀 ----- 」
正しい家づくり研究会会員の設計した「O歯科医院」
平屋で計画した「O歯科医院」は、水平性が強調される寄棟屋根を採用。
建物高さを抑え、水平性が強調される意匠として寄棟屋根としました。
診察室スペースや待合等の患者さんが過ごす空間も屋根形状を意識した船底天井として、外装や室内インテリアも白を基調とし、一部木を用いて、明るく大らかな歯科医院となるよう設計を進めました。