美しい日本の住まい
床の間 (後編)
「簡素で静かな暮らし方の象徴として床の間がある」
「正しい・・・」と問われたら、鼻で笑うか、口でごまかすか、手でいなすか、体をかわしてやり過ごすかということで、適当にお茶を濁す対処法が大方のような気がする。まっとうに正面から立ち向かおうとすると、生真面目、不器用などという評価がついたりもする。
しかし「正しい」という言葉をまっとうに掲げて家づくりに挑む人たちには共感するものがある。それはおそらく言葉では示せない問わず語りに示される生き方である。
そしてもうひとつ、正しいは嘘がないということだ。家づくりのプロセスで嘘があってはいけない。
床の間についてはこんなエピソードがある。
新築現場で、床柱に背割り(経年変化で醜く割れることを防ぐため、当初から鋸で挽き割っておくこと)がしてある。これを見つけた建主さんが、インターネットで調べたら背割りは柱の強度を弱めるとにあるからこの床柱はダメだ、と強硬に抗議した。間違った工法だというのだ。止む無く大工さんは取り付けた床柱を普通の角材に取り替えた。建主さんはそれで満足した。設計者が選りすぐった床柱材が無駄になった。
ここにはいろいろな問題が含まれている。床の間の柱という形式の問題のほか、情報リテラシーの問題、大工さんの説明能力の問題、建主さんの建築基礎知識の問題などがからんでいる。
床の間の形式については諸説あり、様々な物議を醸し出す。
数寄屋住宅の床の間では、正月の床飾りは結び柳。3m以上の長い枝垂れ柳を花生から大きく迫り出して輪を作り床畳に垂らす。初春を祝う床の間の演出がある。
粗忽長屋の八五郎が数寄屋造りの大家さんの家で正月の床飾りをするというので、こっそりと垣根越しに見に行く。何やら床の間に長いものがぶら下がっている。そうか正月は長いものを吊るせばいいのか、長寿を祝うとはこのことだ、と天井から荒縄をつるして正月飾りとした。
長寿を祝う年始の装いはさまざまである。
そもそも貴族の寝殿造りには床の間はなかった。床の間の由来は室町時代の書院造りから始まる。はじめは仏像を安置する場所であり、そこに軸を掛けて道具を置くようになった。その後、仏具にこだわることなく座敷のしつらえとして変化していった。
日本の近代化のなかで、住まいも住まい方も変化した。明治時代になって洋風住宅が広まったことで和風住宅が顕在化する。伝統的日本住宅の文明開化は、家づくりをする者たちにとって大問題だった。
全国の秀才が集まる大学で建築を教えるにつけても、まずは専門用語の共通理解が必要だった。そもそも「建築」という言葉自体が明治期に入って生まれた言葉だ。明治39年日本での初めての建築辞書「日本建築辞彙」が出版されている。これは昭和6年に改訂増補(丸善)され、平成23年に新訂版(中央公論美術出版)が出され現在に続いている。正しい日本建築専門の特殊用語はまずこの辞書から紐解くとよい。
昭和初期の建築家・藤井厚二(建築環境工学の先駆者とされる)に「床の間」の研究がある。腰掛け式・坐式・閑室(古い伝統に縛られない和敬清寂を楽しみ閑寂を旨とする部屋)に分けて、床の間のあり方を実験的に検討している。
その床の間も1945敗戦とともに、封建的な日本の武家住宅の名残として排除の対象となった。モダンリビングに床の間は不要だった。さらに現代では畳を敷いた居室も絶滅を危惧されるようになった。
さはさありながら、「和室」は住宅から消え去ってはいない。和敬清寂を楽しみ閑寂を旨とする部屋を少なくとも一室は確保したい、という住まい方が継承されている。「住まい」は「澄まい」に通じるなどと学校でも習ったものだ。常にこの日本列島で住まいをつくるものの課題として、場所の風土性と生活文化という課題がある。
「伝統的木造軸組構法」による日本の住宅は、日本列島の過半を占める森林からもたらされたものだ。森を守る技術や制度、受け継がれてきた職人たちの技芸、四季とともにある生活行事を包括する木造住宅のしくみができた。木造住宅が住まいの文化としてあることを今日的状況の中で改めて見直してみると、畳・障子をしつらえた住居とは、簡素で静かな暮らし方の選択である。その象徴として床の間がある。
(つづく Copyright© 2019野平洋次)
しかし「正しい」という言葉をまっとうに掲げて家づくりに挑む人たちには共感するものがある。それはおそらく言葉では示せない問わず語りに示される生き方である。
そしてもうひとつ、正しいは嘘がないということだ。家づくりのプロセスで嘘があってはいけない。
床の間についてはこんなエピソードがある。
新築現場で、床柱に背割り(経年変化で醜く割れることを防ぐため、当初から鋸で挽き割っておくこと)がしてある。これを見つけた建主さんが、インターネットで調べたら背割りは柱の強度を弱めるとにあるからこの床柱はダメだ、と強硬に抗議した。間違った工法だというのだ。止む無く大工さんは取り付けた床柱を普通の角材に取り替えた。建主さんはそれで満足した。設計者が選りすぐった床柱材が無駄になった。
ここにはいろいろな問題が含まれている。床の間の柱という形式の問題のほか、情報リテラシーの問題、大工さんの説明能力の問題、建主さんの建築基礎知識の問題などがからんでいる。
床の間の形式については諸説あり、様々な物議を醸し出す。
数寄屋住宅の床の間では、正月の床飾りは結び柳。3m以上の長い枝垂れ柳を花生から大きく迫り出して輪を作り床畳に垂らす。初春を祝う床の間の演出がある。
粗忽長屋の八五郎が数寄屋造りの大家さんの家で正月の床飾りをするというので、こっそりと垣根越しに見に行く。何やら床の間に長いものがぶら下がっている。そうか正月は長いものを吊るせばいいのか、長寿を祝うとはこのことだ、と天井から荒縄をつるして正月飾りとした。
長寿を祝う年始の装いはさまざまである。
そもそも貴族の寝殿造りには床の間はなかった。床の間の由来は室町時代の書院造りから始まる。はじめは仏像を安置する場所であり、そこに軸を掛けて道具を置くようになった。その後、仏具にこだわることなく座敷のしつらえとして変化していった。
日本の近代化のなかで、住まいも住まい方も変化した。明治時代になって洋風住宅が広まったことで和風住宅が顕在化する。伝統的日本住宅の文明開化は、家づくりをする者たちにとって大問題だった。
全国の秀才が集まる大学で建築を教えるにつけても、まずは専門用語の共通理解が必要だった。そもそも「建築」という言葉自体が明治期に入って生まれた言葉だ。明治39年日本での初めての建築辞書「日本建築辞彙」が出版されている。これは昭和6年に改訂増補(丸善)され、平成23年に新訂版(中央公論美術出版)が出され現在に続いている。正しい日本建築専門の特殊用語はまずこの辞書から紐解くとよい。
昭和初期の建築家・藤井厚二(建築環境工学の先駆者とされる)に「床の間」の研究がある。腰掛け式・坐式・閑室(古い伝統に縛られない和敬清寂を楽しみ閑寂を旨とする部屋)に分けて、床の間のあり方を実験的に検討している。
その床の間も1945敗戦とともに、封建的な日本の武家住宅の名残として排除の対象となった。モダンリビングに床の間は不要だった。さらに現代では畳を敷いた居室も絶滅を危惧されるようになった。
さはさありながら、「和室」は住宅から消え去ってはいない。和敬清寂を楽しみ閑寂を旨とする部屋を少なくとも一室は確保したい、という住まい方が継承されている。「住まい」は「澄まい」に通じるなどと学校でも習ったものだ。常にこの日本列島で住まいをつくるものの課題として、場所の風土性と生活文化という課題がある。
「伝統的木造軸組構法」による日本の住宅は、日本列島の過半を占める森林からもたらされたものだ。森を守る技術や制度、受け継がれてきた職人たちの技芸、四季とともにある生活行事を包括する木造住宅のしくみができた。木造住宅が住まいの文化としてあることを今日的状況の中で改めて見直してみると、畳・障子をしつらえた住居とは、簡素で静かな暮らし方の選択である。その象徴として床の間がある。
(つづく Copyright© 2019野平洋次)
「簡素で静かな暮らし方の象徴として床の間がある」
吉川みゆき
吉川みゆき
正しい家づくり研究会会員の設計した「床の間」事例
「kawaguchiの家」
これは築100年の木造住宅を解体し、新築した住宅の床の間写真です。
旧住居には、現代では貴重な木材や手の込んだ組子扉などがありました。
お施主様に「これらをご新居に移設してはいかがですか?」とご相談したところ、
「実は、沢山の思い出はある今の家を壊してしまうことに躊躇していない訳ではあり ませんでした。
思い出を引き継ぐことができたらとても嬉しいです。」と喜ばれ、旧住 居の一部を移設することになりました。
旧住居で使用していたお仏壇扉を建具屋さんに修復して頂き、新居用サイズに調整して床の間脇に組み込みました。
これは築100年の木造住宅を解体し、新築した住宅の床の間写真です。
旧住居には、現代では貴重な木材や手の込んだ組子扉などがありました。
お施主様に「これらをご新居に移設してはいかがですか?」とご相談したところ、
「実は、沢山の思い出はある今の家を壊してしまうことに躊躇していない訳ではあり ませんでした。
思い出を引き継ぐことができたらとても嬉しいです。」と喜ばれ、旧住 居の一部を移設することになりました。
旧住居で使用していたお仏壇扉を建具屋さんに修復して頂き、新居用サイズに調整して床の間脇に組み込みました。
設計担当:有限会社みゆき設計 吉川みゆき