美しい日本の住まい
玄関 (前編)
「外と内を隔てる」
野平洋次
野平洋次
70年ほどの昔、幼友達と遊んだ古屋敷があった。その家にはツマトグチと呼ばれる出入り口があった。
妻入り・平入という建築専門用語に出会った学生時代、住居の長方形平面の長辺側に出入り口があるのを平入、短辺側に出入り口があるのを妻入というと知り、あの古屋敷のツマトグチを思い出したことがある。
そのころある酒席で、玄関に馬酔木の花を飾ったら妻が喜んだ、と冗談好きの大先生が話したのが発端で、妻の話・出入り口の話になり、妻戸口の話になった。
「妻戸は平安の昔から寝殿造りにありますよ」
という大先生の一言で、受験勉強で使っていた旺文社古語辞典を引くと「妻戸」があった。「妻は当て字で端(つま)の意。寝殿造りの四隅にある出入り口の両開き戸。」とある。そして「戸」にはトムル(止める)の意味があることを知った。
しかし筆者が遊んだツマトグチは妻側のほぼ中央にあり2枚の引き込み板戸だった。
玄関については、鎌倉時代の禅宗寺院の構えに由来する幽玄なる関門、との定説がある。禅寺の玄関はなんどか潜ったことがある。唐破風の屋根と黒い敷き瓦の床で、否応なく居住まいを正した。「無用な者、入るべからず」の文字が説得力を持っていた。
この形式の玄関は武家屋敷に引き継がれる。
武家屋敷には表玄関と内玄関がある。主人と客人は表から、妻や家族・使用人は内玄関(勝手口)から出入りした。
明治時代に入って、一般住宅にも玄関が取り付けられた。武士という身分がなくなっても、格式を重んじる家では立派な玄関がモノを言った。門を潜り玄関に導く屋敷構えはステイタス・シンボルでもあった。
玄関から家に入るということは、入らないモノ、入れてはならないモノを背後に残して入るということだとある人が書いていた。葬式から帰った時、玄関先で清めの塩をまいてもらってから家に入るしきたりがそれを表わしている。
子供の頃、玄関の敷居を踏むことは父親の頭を踏みつける事と同じ事、としつけられた。「男子家を出ずれば七人の敵あり」、平たく言えば「敷居をまたげば7人の敵」ということで、内と外の間には意識の境目があった。「内弁慶」も「山の神」も敷居の内側での話である。 住まいの近代化とともに、武家屋敷のような玄関は時代遅れとなった。玄関と勝手口を持つ家も減った。家人が出入りすればご近所や訪問販売も出入りする名ばかりの玄関となる。
外と内を隔てるだけの簡便な玄関には、もはや禅寺のイメージはない。扉を開けた直ぐ先に靴を脱ぎ捨て、わずかばかりの段差の床に上がる玄関は、バリアフリーでその段差も解消の対象となる。
小さな玄関扉をピシャリと締めれば、あとは気まま我がままに過ごせる住空間がある。
昨今の住宅街を歩いて行くと、家の内部をうかがうことのできない閉鎖的な構えの戸建て住宅が増えてきた。玄関は外からわかりやすい位置にすべし、方角は「卯馬の玄関」(東・南)が吉、というかつての住宅設計指針は今や忘れられている。
外部から唯一の出入り口となった玄関は防犯防火対策が必須となる。
道路からいきなり玄関という住まいで、閉鎖的な外壁面に対してプロポーションの綺麗な開口部として、鋼板を張った玄関戸が際立っているのを見たことがある。その戸の内にはもう1枚格子戸があり、この開口の姿がさまざまに変貌する様が想像できた。
ハレとケ、日常と非日常、多様な日本人の住まい方を日本家屋は可能にしてきた。玄関は幽玄なる関門であるか否かにかかわらず、正月飾りをしたり忌中の告示を掲げたりしながら、住居と外部社会を隔ててきた。
現代の住居では、玄関に守られた内輪の生活が窓からこぼれ落ちる。
妻入り・平入という建築専門用語に出会った学生時代、住居の長方形平面の長辺側に出入り口があるのを平入、短辺側に出入り口があるのを妻入というと知り、あの古屋敷のツマトグチを思い出したことがある。
そのころある酒席で、玄関に馬酔木の花を飾ったら妻が喜んだ、と冗談好きの大先生が話したのが発端で、妻の話・出入り口の話になり、妻戸口の話になった。
「妻戸は平安の昔から寝殿造りにありますよ」
という大先生の一言で、受験勉強で使っていた旺文社古語辞典を引くと「妻戸」があった。「妻は当て字で端(つま)の意。寝殿造りの四隅にある出入り口の両開き戸。」とある。そして「戸」にはトムル(止める)の意味があることを知った。
しかし筆者が遊んだツマトグチは妻側のほぼ中央にあり2枚の引き込み板戸だった。
玄関については、鎌倉時代の禅宗寺院の構えに由来する幽玄なる関門、との定説がある。禅寺の玄関はなんどか潜ったことがある。唐破風の屋根と黒い敷き瓦の床で、否応なく居住まいを正した。「無用な者、入るべからず」の文字が説得力を持っていた。
この形式の玄関は武家屋敷に引き継がれる。
武家屋敷には表玄関と内玄関がある。主人と客人は表から、妻や家族・使用人は内玄関(勝手口)から出入りした。
明治時代に入って、一般住宅にも玄関が取り付けられた。武士という身分がなくなっても、格式を重んじる家では立派な玄関がモノを言った。門を潜り玄関に導く屋敷構えはステイタス・シンボルでもあった。
玄関から家に入るということは、入らないモノ、入れてはならないモノを背後に残して入るということだとある人が書いていた。葬式から帰った時、玄関先で清めの塩をまいてもらってから家に入るしきたりがそれを表わしている。
子供の頃、玄関の敷居を踏むことは父親の頭を踏みつける事と同じ事、としつけられた。「男子家を出ずれば七人の敵あり」、平たく言えば「敷居をまたげば7人の敵」ということで、内と外の間には意識の境目があった。「内弁慶」も「山の神」も敷居の内側での話である。 住まいの近代化とともに、武家屋敷のような玄関は時代遅れとなった。玄関と勝手口を持つ家も減った。家人が出入りすればご近所や訪問販売も出入りする名ばかりの玄関となる。
外と内を隔てるだけの簡便な玄関には、もはや禅寺のイメージはない。扉を開けた直ぐ先に靴を脱ぎ捨て、わずかばかりの段差の床に上がる玄関は、バリアフリーでその段差も解消の対象となる。
小さな玄関扉をピシャリと締めれば、あとは気まま我がままに過ごせる住空間がある。
昨今の住宅街を歩いて行くと、家の内部をうかがうことのできない閉鎖的な構えの戸建て住宅が増えてきた。玄関は外からわかりやすい位置にすべし、方角は「卯馬の玄関」(東・南)が吉、というかつての住宅設計指針は今や忘れられている。
外部から唯一の出入り口となった玄関は防犯防火対策が必須となる。
道路からいきなり玄関という住まいで、閉鎖的な外壁面に対してプロポーションの綺麗な開口部として、鋼板を張った玄関戸が際立っているのを見たことがある。その戸の内にはもう1枚格子戸があり、この開口の姿がさまざまに変貌する様が想像できた。
ハレとケ、日常と非日常、多様な日本人の住まい方を日本家屋は可能にしてきた。玄関は幽玄なる関門であるか否かにかかわらず、正月飾りをしたり忌中の告示を掲げたりしながら、住居と外部社会を隔ててきた。
現代の住居では、玄関に守られた内輪の生活が窓からこぼれ落ちる。
後編へつづく (Copyright © 2021 野平洋次)
「外と内を隔てる」
坪井当貴建築設計事務所 坪井当貴
坪井当貴建築設計事務所 坪井当貴
-----正しい家づくり研究会会員の設計した「路地玄関のある二世帯の家」-----
道路から少し奥まった旗竿形状の土地。旗竿敷地は大きな土地を細分化することによって生まれた土地形状ではあるが、人通りの多い道路から少しだけ奥まっていることで、家の入口へ向かう路地空間は住まいに落ち着きと静けさを与えてくれる。道路に直接面した玄関は便利さとは裏腹に外の世界とダイレクトにつながってしまうため、境界をより厳しいものにせざるをえない。「奥」に位置する玄関。そこに向かうまでの距離は「外」から「内」または「内」から「外」を緩やかにつないでくれる。この土地のもつ不動産的価値とは別に、とても個人的な価値を持つものだ。玄関は人を迎え、また送り出す場である。見送る家主の顔がいつも明るく見える「ハレ」の場となるように、自然光と間接照明を取り入れた玄関を設計した。社会としての「外」、個人としての「内」の接点を意識したアプローチ空間となった。
設計担当:坪井当貴建築設計事務所 坪井当貴