美しい日本の住まい
庭 (前編)
「入り道(いりみち)」
野平洋次
野平洋次
注目している日本画家、現代都市を題材にしている長澤耕平さんの個展の案内が来た。タイトルに「彼岸から」とあった。
明治期、西洋画と区別するために日本画というジャンルができた。しかし長澤さんの絵からはそんなジャンル分けを超えて、都市を悠久の時間の中で感じさせてくれる。
そして連想したのが日本家屋だった。
日本家屋というのも、明治維新とともに官庁建物や公邸で流行した西洋館に対する在来の日本の家を示す言葉として生まれた。昭和時代には「日本家」と記す専門家もいた。日本家の屋根型、黒光りする柱や鴨居、土間の匂いなどには、日本列島に堆積した歴史、文化の構造、そして今がある。
明治初頭に日本に招かれた博物学者エドワード.S.モースは日本家屋の特徴として、上流邸宅には田園の趣のある庭・中流家屋には入り道と入り口・暮らしとともにある豊かな四季をあげた。モースさんが注目した日本家屋は庭と共にあり自然と共生する。家屋の周りの空地に草木を植えたり築山・泉水をしつらえたりする。
「庭」という言葉は古来からある。日本語源大辞典には「ニハ(土場)」「見てニッコリとなる場であるところからニハ」などという解説がある。思わずニッコリである。
作庭家12代目の小川勝章さんは、この地球に「住拠(すまい)させていただく」という気持ちで庭造りをしていると言う。
外出先から家に帰る。公道からいきなり家の入り口という住居はさておき、敷地内に玄関までの入り道があり、多少の間をおいて入り口に至る設えを持つ家屋は多い。家に帰れば庭である。この庭は前庭として区別しておく。昔ながらの家で見れば門のあたりから玄関までの庭のことである。前庭で外の出来事を脱ぎ捨て、心を入れ替えて我が家に帰る。そんな想いは筆者も幾度となく経験した。
前庭の広い家といえば比較的敷地が広い家ということになる。家屋の配置を北側に寄せ、南を広く開けるのが日本家屋の常道である。
公道からの入り道に魅せられた東京近郊の農家がある。何度か写真を撮りに出かけた。その入り道となる私道に入ると家の屋根全体が見える。入り道の両脇は笹の葉で縁取られている。一直線というよりわずかに右に湾曲して細長く続く。家の玄関は入り道からは半分隠れて見える。前庭は中低木で囲われ屋根の後ろ北側には高木の屋敷林がある。長い入り道でさまざまな光景が展開する。道すがら四季折々の風が吹く。
散歩の途中で見つけた今も鮮明に浮かんでくる入り道がある。公道に接して駐車スペースがあり、その奥に横板張りの門扉がある。その向こうに建物外壁と隣家との境界塀に挟まれたドイツ下見板張りの入り道があった。奥行きおよそ7.2m、幅1.8mの前庭がある。そこに幅約30cmの敷き石を2列で並べた幅60cm一直線の入り道がある。敷石以外は全面リュウノヒゲのような細長い草で覆っている。その植え込みの中に左右1本づつ位置をずらして広葉樹がある。この木の下をくぐった突き当たりに一段上がって玄関ポーチ、そして内開きの木製縦羽目玄関扉となっている。
なんとも奢らず手を抜かず隙のない端正な構えに惹きつけられた。確認すると吉村順三自邸「南台の家」が目の前にあった。
以来、足を伸ばして南台の家の前を通る散歩が楽しみになった。40年も前の話である。
現代の狭小住宅では入り道などをつける余裕はない。
密集住宅地ではいきなり玄関扉というもある。家の内外が1枚の扉だけで仕切られるとは、あまりにも殺伐としてはいないか。二つの素材が対峙する時には緩衝材となる何物かを置くべし、という巨匠の言葉が忘れがたく筆者の記憶に残っている。土、石、樹木、草花が迎えてくれる入り道はまさに内と外の緩衝地帯なのだ。
槇の木の大刈り込み・垣根・塀・見越しの松から門の中に入ってもなお、入り道という空間が家に入るまでの時間を刻む。見えないもの聞こえないものを感じる空間である。
明治期、西洋画と区別するために日本画というジャンルができた。しかし長澤さんの絵からはそんなジャンル分けを超えて、都市を悠久の時間の中で感じさせてくれる。
そして連想したのが日本家屋だった。
日本家屋というのも、明治維新とともに官庁建物や公邸で流行した西洋館に対する在来の日本の家を示す言葉として生まれた。昭和時代には「日本家」と記す専門家もいた。日本家の屋根型、黒光りする柱や鴨居、土間の匂いなどには、日本列島に堆積した歴史、文化の構造、そして今がある。
明治初頭に日本に招かれた博物学者エドワード.S.モースは日本家屋の特徴として、上流邸宅には田園の趣のある庭・中流家屋には入り道と入り口・暮らしとともにある豊かな四季をあげた。モースさんが注目した日本家屋は庭と共にあり自然と共生する。家屋の周りの空地に草木を植えたり築山・泉水をしつらえたりする。
「庭」という言葉は古来からある。日本語源大辞典には「ニハ(土場)」「見てニッコリとなる場であるところからニハ」などという解説がある。思わずニッコリである。
作庭家12代目の小川勝章さんは、この地球に「住拠(すまい)させていただく」という気持ちで庭造りをしていると言う。
外出先から家に帰る。公道からいきなり家の入り口という住居はさておき、敷地内に玄関までの入り道があり、多少の間をおいて入り口に至る設えを持つ家屋は多い。家に帰れば庭である。この庭は前庭として区別しておく。昔ながらの家で見れば門のあたりから玄関までの庭のことである。前庭で外の出来事を脱ぎ捨て、心を入れ替えて我が家に帰る。そんな想いは筆者も幾度となく経験した。
前庭の広い家といえば比較的敷地が広い家ということになる。家屋の配置を北側に寄せ、南を広く開けるのが日本家屋の常道である。
公道からの入り道に魅せられた東京近郊の農家がある。何度か写真を撮りに出かけた。その入り道となる私道に入ると家の屋根全体が見える。入り道の両脇は笹の葉で縁取られている。一直線というよりわずかに右に湾曲して細長く続く。家の玄関は入り道からは半分隠れて見える。前庭は中低木で囲われ屋根の後ろ北側には高木の屋敷林がある。長い入り道でさまざまな光景が展開する。道すがら四季折々の風が吹く。
散歩の途中で見つけた今も鮮明に浮かんでくる入り道がある。公道に接して駐車スペースがあり、その奥に横板張りの門扉がある。その向こうに建物外壁と隣家との境界塀に挟まれたドイツ下見板張りの入り道があった。奥行きおよそ7.2m、幅1.8mの前庭がある。そこに幅約30cmの敷き石を2列で並べた幅60cm一直線の入り道がある。敷石以外は全面リュウノヒゲのような細長い草で覆っている。その植え込みの中に左右1本づつ位置をずらして広葉樹がある。この木の下をくぐった突き当たりに一段上がって玄関ポーチ、そして内開きの木製縦羽目玄関扉となっている。
なんとも奢らず手を抜かず隙のない端正な構えに惹きつけられた。確認すると吉村順三自邸「南台の家」が目の前にあった。
以来、足を伸ばして南台の家の前を通る散歩が楽しみになった。40年も前の話である。
現代の狭小住宅では入り道などをつける余裕はない。
密集住宅地ではいきなり玄関扉というもある。家の内外が1枚の扉だけで仕切られるとは、あまりにも殺伐としてはいないか。二つの素材が対峙する時には緩衝材となる何物かを置くべし、という巨匠の言葉が忘れがたく筆者の記憶に残っている。土、石、樹木、草花が迎えてくれる入り道はまさに内と外の緩衝地帯なのだ。
槇の木の大刈り込み・垣根・塀・見越しの松から門の中に入ってもなお、入り道という空間が家に入るまでの時間を刻む。見えないもの聞こえないものを感じる空間である。
(後編へつづく Copyright © 2022 野平洋次)
「入り道(いりみち)」
正しい家づくりの研究会 松坂亮一
正しい家づくりの研究会 松坂亮一
重要文化財の住まい「奈良屋杉本住宅」
今回の随筆、第28章 庭(前編)「入り道」を読み終えて、今回のテーマは過去一番に難しいなと思った。なかなかコラボの原稿が進まず野平洋二先生にはこの場を借りてお詫び致します。
さて、そんな中ではありますが私には設計事例等が無いため、今回は過去の旅で出会った明治期~昭和初期の建物について二つ考察してみた。
まず一つ目は、昨年のNHK大河ドラマの主人公である「澁澤栄一」の実家で、現在の埼玉県深谷市にある「中ん家(なかんち)」である。現存する建物は栄一の妹夫婦によって明治28年に上棟された建物で、栄一も帰郷した際に滞在し、寝泊まりしたとのこと。入り口の門をくぐると、前庭が広がり玄関や蔵へとつづいていく。
2つ目は、先にご紹介した「中の家」の利根川を挟んで対面にある現群馬県太田市にある、「中島知久平」の自邸である。中島は中島飛行機の創設者で現在では世界でも名だたる「スバル」となる。
中島邸の母屋は棟札(むなふだ)によると昭和5年に上棟したとある。入り口の門には「門衛所」も設置されている。門をくぐり抜けると広い前庭と、「車寄せ」のある玄関が見えてくる。玄関を入ると中庭のある建物で外観とは違い洋館の佇まい。当時としては珍しくフローリングでヘリンボーン仕上げとなっており床はバリアフリーであった。外庭は圧巻の広さであった。
なお、随筆の文章内に出てくる野平洋二先生が散歩で見つけた「吉村順三邸:南台の家 1957年」は建築家の自邸としてもとても有名な建物である。
画像データを掲載するにはハードルが高いため、ご興味がある方はネットで検索してみてください。
ところで、随筆の内容とは違いますが現在のコロナ禍や、ウッドショックなどと同じような混乱の時期に建設された建物を紹介したいと思います。
それは1942年、第二次世界大戦の戦渦にあった当時に建てられた「建築家:前川国男の自邸」である。戦渦にあった当時は現在と同じように建築資材が乏しく、様々の規制があった中で建設され、現在は小金井公園内にある「東京建物園」に移築され見学することができる。
私たちも建築業界に身を置くものとして、このように大変な時期でありながらも皆さまの大切な住宅を一緒につくって参ります。
さて、そんな中ではありますが私には設計事例等が無いため、今回は過去の旅で出会った明治期~昭和初期の建物について二つ考察してみた。
まず一つ目は、昨年のNHK大河ドラマの主人公である「澁澤栄一」の実家で、現在の埼玉県深谷市にある「中ん家(なかんち)」である。現存する建物は栄一の妹夫婦によって明治28年に上棟された建物で、栄一も帰郷した際に滞在し、寝泊まりしたとのこと。入り口の門をくぐると、前庭が広がり玄関や蔵へとつづいていく。
2つ目は、先にご紹介した「中の家」の利根川を挟んで対面にある現群馬県太田市にある、「中島知久平」の自邸である。中島は中島飛行機の創設者で現在では世界でも名だたる「スバル」となる。
中島邸の母屋は棟札(むなふだ)によると昭和5年に上棟したとある。入り口の門には「門衛所」も設置されている。門をくぐり抜けると広い前庭と、「車寄せ」のある玄関が見えてくる。玄関を入ると中庭のある建物で外観とは違い洋館の佇まい。当時としては珍しくフローリングでヘリンボーン仕上げとなっており床はバリアフリーであった。外庭は圧巻の広さであった。
なお、随筆の文章内に出てくる野平洋二先生が散歩で見つけた「吉村順三邸:南台の家 1957年」は建築家の自邸としてもとても有名な建物である。
画像データを掲載するにはハードルが高いため、ご興味がある方はネットで検索してみてください。
ところで、随筆の内容とは違いますが現在のコロナ禍や、ウッドショックなどと同じような混乱の時期に建設された建物を紹介したいと思います。
それは1942年、第二次世界大戦の戦渦にあった当時に建てられた「建築家:前川国男の自邸」である。戦渦にあった当時は現在と同じように建築資材が乏しく、様々の規制があった中で建設され、現在は小金井公園内にある「東京建物園」に移築され見学することができる。
私たちも建築業界に身を置くものとして、このように大変な時期でありながらも皆さまの大切な住宅を一緒につくって参ります。
担当:正しい家づくりの研究会 松坂亮一