美しい日本の住まい
構え (前編)
「構えて住む」
 野平洋次
 連載「美しい日本の住まい」もいよいよ12月を迎えた。1年の締めくくりは、家の構えについて考える事としよう。
 江戸時代は贅沢禁止令があり、武家も身分相応の家に住んでいた。身の丈にあった暮らしである。拝領する石高で屋敷の広さがほぼ決まっており、屋敷の構えは表の門構えに象徴され、門を見れば身分がわかるものだった。
 町人の家の表構えも、間口により課税される額が違うほか、3階建にしてはならない、庇やオダレ(軒先に垂らす目隠しの類)をつけてはならない等の決りがあり、勝手気ままに家を構える事はできなかった。そのおかげで統一感のある街並みが形成され今に残っている。
 江戸時代末の1827年、百万石の加賀藩に将軍家の姫が嫁入りするというので、屋敷の表門が新築された。朱塗り(透き漆に赤色顔料やベンガラを混ぜたもの)の立派な長屋門である。姫を迎え入れるために用意された門構えは、晴れやかな赤い色だった。現在は東京大学本郷キャンパスの通称「赤門」として残っている。
 同じ江戸末期に建てられた大名屋敷の表門で、今でも見る事ができる長屋門がある。東京国立博物館に移築保存されている通称「黒門」である。これは江戸城前の、丸の内(大名小路の名前が今も残る)に並んだ大名屋敷のうちの一つで、鳥取藩池田家の正門である。左右に番所を置き屋根は入母屋で、この表門をくぐる事ができるのは10万石以上の大名だけだった。
 長屋門のある屋敷構えは、村を束ねる大庄屋の家でも許されていた。今に残るその時代の長屋門で紹介したいものが陶芸の町、栃木県益子町にある。
 益子参考館として公開されている。陶芸家で人間国宝の浜田庄司(1984〜1978)が栃木県内で長屋門を訪ね歩き、めがねにかなったものを移築した。柱と白壁と窓のすっきりした構成に改修し、腰壁の位置まで薪を積み上げて民芸品のような建物に仕上げている。
 浜田は自身の陶芸を「京都で道を見つけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」と言っている。各地で身につけた手仕事を見る目は、陶芸に留まらず各種生活用具の逸品を掘り出し収集し、自分の仕事場に置いた。武家の格式がどうのこうのと言うことではなく、それを作った者の手業と思いを民芸として愛し、自宅と作業場のある屋敷の表門として構えた。
 住まいを構えると言えば、結婚して独立した家を持つことを意味する。それは独立した個人として世の中と対峙する態勢が整ったという事かもしれない。
 屋敷構え、門構え、家構えという言葉があるように、住まいには暮らしの準備、備え、すなわち構えが必要である。それは住む為の心構えとも言える。
 民芸の町と言えば倉敷がある。江戸時代は肥沃な米所で、支配した代官はあの茶人・造園家として知られる小堀遠州である。後に倉敷は幕府直轄の天領となるが、農業用水路として作られた川沿いに商人が集まり倉ができた。施工したのは瀬戸内海の塩飽本島に拠点を置く名工の集団(塩飽大工)である。明治に入り倉敷の大庄屋大原家が紡績業を起業する。その当主の屋敷構えが今に残っている。大原家は代々、倉敷の文化事業に取り組んできた。
 その屋敷の構えは塀越しに外からうかがう事ができる。
 門の正面に玄関はなさそうだ。隅違えにして門から斜めに玄関に至るのだろうか。それとも門を入って右に折れL字型で玄関先に行き着くのだろうか。はたまた湾曲したアプローチがあるのだろうか。そして前庭にはどんな植栽がなされているのだろう。
 門を構えて住む家では、門をくぐり玄関先に立つまでの時間と空間がしかるべく演出されているはずである。それを想像しながら屋敷構えを拝見するのも、街歩きの楽しみのひとつである。

後編へつづく(Copyright © 2019 野平洋次)

「構えて住む」
望月建築アトリエ 望月大介
正しい家づくり研究会会員の設計した
-----「国立の家」-----
 ここでの設計では、敷地の広さ、周辺環境としての町並みなど、どれをとっても住宅地として申し分ない与条件です。 一般的には贅沢な話ではありますが、設計者としては逆説的になかなか全体像を掴みにくく、敷地は南北に長手の短冊形で、道路は北側にあり敷地から1mほど低い。 周辺住宅は門構の家も多く、いかにも町屋敷のたたずまいです。ここでは敷地の高低差と南北に長い特徴を考慮して建物を二棟に分ける案とし、中央部に玄関ホールを置く住宅全体としてはH型平面としました。
設計担当:望月建築アトリエ 望月大介
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