美しい日本の住まい
土間 (前編)
「三和土をタタキと読ませる職人術語」
野平洋次
野平洋次
住まいの床は固すぎても弾力がありすぎてもいけない。だから畳床は優れものなのだが、そこに上がるには履物を脱がなければならない。
明治時代のはじめ、日本に来てその家屋と周辺環境を探査したアメリカ人がいる。学者エドワード・S・モースでそのコレクションに当時の履物がある。先年、江戸東京博物館でのモース・コレクション特別展で見た。
「道行く人は裸同然、粗末な木製の履物を履いている」というモースの記録がある。「木片に2枚の横木を取り付けたものと、木の塊から彫ったものの2種類がある」と観察も細やかだ。履物を見てその人の身分や素性がわかるとして、材料と形態の異なるさまざまな下駄(ゲタ)・草履(ゾウリ)・草鞋(ワラジ)などを収集している。
家屋の中で床がなく土が露出しているところを土間という。ここで履くのは下駄か草履か、それぞれの家庭の事情があろう。
土間はニワとも呼ばれる。日本全国の農漁村を歩き調査した民俗学者宮本常一さんの著作「日本人の住まい」(農文協2007年)では「土間住まい」という記述がある。土間にモミヌカを撒きワラクズを拡げた上にムシロを敷いて寝起きした。寝床に入るときには履物を脱ぐ。農耕民族ならではの住まい方で、昭和時代までその名残が見られたという。
「下駄を預ける」と言えば、下駄を預けた人に身の振り方をまかせること。「沓脱ぎ石(クツヌギイシ)」とは、高床の日本家屋で玄関や縁側に式台の代わりに据え付けられた扁平な石のことだ。公家階級が履いたつま先に浅く鳥の皮を巻いた沓がある。
上履き・下履きと言う。そもそも日本家屋では上履きなど必要としなかったわけだから、下履きは上履きが出現してから相対的に生まれた言葉である。「和風」という言葉も、「洋風」という言葉が文明開化の明治に出現したことで生まれた言葉だ。
古民家でコチコチに固められテカテカに磨き上げられた土間がある。多少の水気や衝撃にはビクともしない。戸口から差し込む一条の日差しを照り返して薄明かりの土間空間をつくる。
こんな土間をタタキという。タタキは「三和土」と書く。
なぜタタキというか、京都の職人さんに聞いてみた。
「なぜかというと、叩いてかためるからやね。」
そんなことなら何もわざわざ京都で教わらんでも、と思ってはいけない。その得意満面の職人さんは左官の親方さんだ。学生を前にしたタタキの実演を仕切っている。弟子たちが緊張して道具を手にして待ち構えている。そしらぬ顔で親方の話は続く。
粘土・川砂・消石灰の三品に水を加えて混ぜる。だから三和土と書いて「タタキ」と読む。水にニガリを加える方法もある。この粘土は叩き土といい昔は三州(愛知県東部)、今は深草(京都市南部)の土が有名。「深草」は高級な三和土の代名詞で、落ち着いた渋みのある草色には「深草色」の名前がある。
などなどの解説のあと、ようやく弟子達の出番がきた。
器に移した叩き土に砂、水を加えはじめる。地面に角材2本を重ねた約6cmの深さの枠がつくられた。その上端まできっちり調合の終わった土を入れる。それを枠の深さの半分(角材1本分)の厚さになるまで叩いて固める。
「さあ気に入らない奴の顔でも思い出して叩け!」
親方が調子のいいことをいう。弟子たちは親方の顔を見ながら、懸命に短い棒の先に取り付けた叩き板で盛り土の表面を叩く。
丁度角材1本分のところまで叩いて圧縮したら上段のわくを外して一区切り。これから先は親方の出番となる。表面を鏝で磨き、水を含ませたスポンジで優しく撫でて仕上げる。
そうして見事な色合いをした三和土ができ上がった。
三和土は、池の底に使われるほど防水効果がある。数寄屋や茶室の犬走り・土縁としても登場する。
このような左官職人の技芸は海外からもお呼びがかかる。三和土を実演した親方も海外での仕事に忙しいとのことだ。
イタリアでは工事現場職人のまとめ役は左官(muratore)の親方がする。家づくりの主役は、レンガを積み、壁を塗り、石畳を敷く職人たちである。彼らと競って海外で活躍する日本の左官職人たちがいる。
後編へつづく(Copyright © 2019 野平洋次)
明治時代のはじめ、日本に来てその家屋と周辺環境を探査したアメリカ人がいる。学者エドワード・S・モースでそのコレクションに当時の履物がある。先年、江戸東京博物館でのモース・コレクション特別展で見た。
「道行く人は裸同然、粗末な木製の履物を履いている」というモースの記録がある。「木片に2枚の横木を取り付けたものと、木の塊から彫ったものの2種類がある」と観察も細やかだ。履物を見てその人の身分や素性がわかるとして、材料と形態の異なるさまざまな下駄(ゲタ)・草履(ゾウリ)・草鞋(ワラジ)などを収集している。
家屋の中で床がなく土が露出しているところを土間という。ここで履くのは下駄か草履か、それぞれの家庭の事情があろう。
土間はニワとも呼ばれる。日本全国の農漁村を歩き調査した民俗学者宮本常一さんの著作「日本人の住まい」(農文協2007年)では「土間住まい」という記述がある。土間にモミヌカを撒きワラクズを拡げた上にムシロを敷いて寝起きした。寝床に入るときには履物を脱ぐ。農耕民族ならではの住まい方で、昭和時代までその名残が見られたという。
「下駄を預ける」と言えば、下駄を預けた人に身の振り方をまかせること。「沓脱ぎ石(クツヌギイシ)」とは、高床の日本家屋で玄関や縁側に式台の代わりに据え付けられた扁平な石のことだ。公家階級が履いたつま先に浅く鳥の皮を巻いた沓がある。
上履き・下履きと言う。そもそも日本家屋では上履きなど必要としなかったわけだから、下履きは上履きが出現してから相対的に生まれた言葉である。「和風」という言葉も、「洋風」という言葉が文明開化の明治に出現したことで生まれた言葉だ。
古民家でコチコチに固められテカテカに磨き上げられた土間がある。多少の水気や衝撃にはビクともしない。戸口から差し込む一条の日差しを照り返して薄明かりの土間空間をつくる。
こんな土間をタタキという。タタキは「三和土」と書く。
なぜタタキというか、京都の職人さんに聞いてみた。
「なぜかというと、叩いてかためるからやね。」
そんなことなら何もわざわざ京都で教わらんでも、と思ってはいけない。その得意満面の職人さんは左官の親方さんだ。学生を前にしたタタキの実演を仕切っている。弟子たちが緊張して道具を手にして待ち構えている。そしらぬ顔で親方の話は続く。
粘土・川砂・消石灰の三品に水を加えて混ぜる。だから三和土と書いて「タタキ」と読む。水にニガリを加える方法もある。この粘土は叩き土といい昔は三州(愛知県東部)、今は深草(京都市南部)の土が有名。「深草」は高級な三和土の代名詞で、落ち着いた渋みのある草色には「深草色」の名前がある。
などなどの解説のあと、ようやく弟子達の出番がきた。
器に移した叩き土に砂、水を加えはじめる。地面に角材2本を重ねた約6cmの深さの枠がつくられた。その上端まできっちり調合の終わった土を入れる。それを枠の深さの半分(角材1本分)の厚さになるまで叩いて固める。
「さあ気に入らない奴の顔でも思い出して叩け!」
親方が調子のいいことをいう。弟子たちは親方の顔を見ながら、懸命に短い棒の先に取り付けた叩き板で盛り土の表面を叩く。
丁度角材1本分のところまで叩いて圧縮したら上段のわくを外して一区切り。これから先は親方の出番となる。表面を鏝で磨き、水を含ませたスポンジで優しく撫でて仕上げる。
そうして見事な色合いをした三和土ができ上がった。
三和土は、池の底に使われるほど防水効果がある。数寄屋や茶室の犬走り・土縁としても登場する。
このような左官職人の技芸は海外からもお呼びがかかる。三和土を実演した親方も海外での仕事に忙しいとのことだ。
イタリアでは工事現場職人のまとめ役は左官(muratore)の親方がする。家づくりの主役は、レンガを積み、壁を塗り、石畳を敷く職人たちである。彼らと競って海外で活躍する日本の左官職人たちがいる。
後編へつづく(Copyright © 2019 野平洋次)
「三和土をタタキと読ませる職人術語」
有限会社HAN環境・建築設計事務所 南澤圭祐
有限会社HAN環境・建築設計事務所 南澤圭祐
正しい家づくり研究会会員の設計した「土間」
「森林公園の家」
この住まいは、埼玉県の森林公園に隣接した緑豊かな環境に位置しています。
建主様は、家族が自然とリビングに集まり家族の気配が緩やかに繋がる空間を希望され
ていたため、緑豊かな外部と内部の中間的な位置に、キッチン、ダイニングテーブル、薪ストーブなどを配置した「土間」を現代の住まい方に合わせ計画しました。
建主様から「薪ストーブの火、キッチン、土間との段差が人の拠り所になり家族が自然と集まってくる」と聞いています。
「土間」を通して、家族が楽しく豊かに暮らせる空間となる事を目指しています。
この住まいは、埼玉県の森林公園に隣接した緑豊かな環境に位置しています。
建主様は、家族が自然とリビングに集まり家族の気配が緩やかに繋がる空間を希望され
ていたため、緑豊かな外部と内部の中間的な位置に、キッチン、ダイニングテーブル、薪ストーブなどを配置した「土間」を現代の住まい方に合わせ計画しました。
建主様から「薪ストーブの火、キッチン、土間との段差が人の拠り所になり家族が自然と集まってくる」と聞いています。
「土間」を通して、家族が楽しく豊かに暮らせる空間となる事を目指しています。
設計担当:有限会社HAN環境・建築設計事務所 南澤圭祐