美しい日本の住まい
縁側 (後編)
「縁側は日本家屋のDNA」
 野平洋次
 新築のお宅拝見に行った。玄関脇に和室があった。床の間もついている。何気にほっとして庭に続く戸を勢い良く開けると、オットットット、ころげ落ちそうになった。縁がない。座敷の構えは、畳があり床柱に落掛け書院障子も付いている。そこで濡れ縁のある和室の構成を想像して外に出ようとしてしまったのだ。部屋の際が障子の敷居一本で終わっていた。
 日本の住まいの近代化の過程で、従前の住まいを見直した改良住宅が著名な建築家によって提案されている。
 生活改善同盟会出品作(1922)として大熊喜邦(1988~1952)が実物展示したのは、椅子式の居間からパーゴラ風の涼亭を通って芝生の庭に出る形式だった。そのご子息である大熊喜英(1905〜1984)は、独自の民家風住宅のスタイルを確立した。処女作、福本貞喜邸(昭和12)では、小屋組は日本の民家風、壁はイギリスの木造民家風という住まいに、濡れ縁とサンルームを取り付けた。内と外をいかに結ぶかという問題を、西洋風・日本風の折衷で考えた結果だ。この住宅の一部は江戸東京博物館に移築展示されている。
 1931年の家庭生活合理化展(婦人之友社・自由学園共催)では、モデルハウス千葉邸が遠藤新の設計で提案されている。遠藤は近代建築の巨匠といわれるフランク・ロイド・ライトの弟子であり日本でのパートナーでもあったわけだが、ライト式を超えた和洋の融合した住居となっている。椅子式の食堂兼居間と寝室(畳8畳)につながる南側に2坪のサンルームが縁側に代わって置かれている。
 大隈喜英が晩年に設計した黒澤利夫邸(1976)では、南北両側に濡れ縁のある椅子式の談話室と大黒柱でつながる3畳の茶の間が家の中央部にある。茶の間は談話室から21cm床を上げた小上がりで、畳半畳の囲炉裏が切ってある。談話室から茶の間に上がる踏み台となる框は太く頑丈である。ここに腰掛けて背中を囲炉裏の火で温めながら談話室の椅子席と対話ができる。木部をオイルステインで黒褐色に塗って民家風に仕上げている。
 8畳の奥座敷は書院風で、大面取りをした杉の床柱があり広い庭に面して幅90cmほどの縁甲板張りの縁側を取り付けている。
 濡れ縁、茶の間の上がり框、そして座敷の縁側が機能する住まいである。
 遠藤新(前出)のご子息でありF.L.ライトからも直接学んだ遠藤樂(1927〜2003)の住宅作品(「楽しく建てるー建築家遠藤樂作品集」2007・丸善)では、二階の居間に続いて広がるバルコニーを取り付け、立ち上がった手摺壁の向こうに借景となる風景を配した設計が多く見られる。バルコニーが広い縁側のようでもある。
 親子二代にわたる縁側的なものの工夫は、日本の住まいの近代化への挑戦として興味あるものだが、親子には共通する日本の住まいの原風景があるようだ。
 ところがこのような縁側が現代住居からなくなりつつある。
 縁側のようなあいまいな空間にスペースを割くより、名前を付けて居室とした方が、商品化した住宅では有利という事だろうか。融通無碍の縁側を使いこなす生活スタイルがなくなったという事だろうか。
 縁側を通して住まいの変遷を見てみると、そのあいまいさの中にこそ価値があることがわかる。
 縁側は開放感に満ちた場所で、何かと何かを結びつける場所である。縁甲板を敷居と並行に張った榑縁、厚い板を敷居と直角に並べた切り目縁、1間幅の広縁、鉤の手に折れた回り縁、濡れ縁(雨縁とも)、座敷に続く入側、などの形式があり住まいを彩っている。そして雨戸・ガラス戸・猫間障子などを組み合わせて、季節ごとにさまざまな場面をつくりだす。
 内と外のいくつもの関係が縁側から紡ぎ出され、暮らしの中に美的要素を生み出している。
(Copyright © 2019 野平洋次)


「縁側は日本家屋のDNA」
 有限会社みゆき設計 吉川みゆき
正しい家づくり研究会会員の設計した
「縁側のある家」
「二つの縁側がある家」
 こちらの住宅は北東に配した和室に広縁を設け、南側の庭に面した屋外に広い間口でたっぷりとした奥行きのあるウッドデッキを設けました。北東の和室は冬場は通常寒くなりがちですが、室内にこのような縁側を設けることにより暖かな日だまりができ、冬でも快適に過ごすことができます。南側の長く伸びるウッドデッキからは日本庭園をゆっくりと眺めながら、四季の移り変わりを感じることができます。日本家屋で昔から設けられてきた縁側は、現代の住宅にも取り入れることができるのです。
設計担当:有限会社みゆき設計 吉川みゆき
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